No.044 Friday Edition

2000年1月14日

経営の座談会に関する特別投稿  「日本人に生まれてよかった」  小林至

「日本人に生まれてよかった」これが、これまでの米国生活での実感です。

私は現在フロリダ州オーランドに、妻(間もなく第2子出産予定)、息子一人、犬一匹と共に住んでいます。2000年1月1日の最高気温が27度、最低気温15度という、温暖な気候に加え、社会資本も整い、実に住み易い街であります。資源豊かかつ広大な土地にできた新興移民国家である利点は計り知れない、と感じずにはいられません。しかし、実は、その恩恵を享受できるのも、日本人の中流家庭で育ち、教育を受けさせてもらったおかげなのです。と申しましても、国粋主義ですとか、攘夷などというものでは、ありません。米国生活に失望したわけでもありません。ただ、米国の会社で働き、納税し、つまり、米国社会の一員として暮らすなかで、体感したことであります。

私が米国に来たのは、今から6年近く前になります。1993年晩秋、プロ野球ロッテ球団から馘首され、物心ついて以来、全てをぶつけてきた野球から離れることになりましたが、その虚脱感は、自分でも驚くほどでして、何か刺激を与えねばいかん、と思っていたところに、考え付いたのが、米国大学院留学でした。

私は、多分、私の世代の大多数もそうでしょうが、日本にいながらにして、大リーグはもちろん、服装、音楽、映画などを通して、長期に渡ってアメリカ文化の光の部分を多々見せられてきましたので、米国憧憬の思いがかなり醸成されていたのも、渡米の大きな動機でした。英語がぺらぺらになりたい、との思いもありました。

ところが、ニューヨークで2年少々、オーランドで3年半の間、米国一般社会のなかで生活していますと、日本で聞いている話とは随分違うのです。違いについては、順を追って述べますが、結論から申し上げますと、むしろ日本は、決して完璧だとは言わないけれど、真に一つの理想を実現している社会だ、と思うに至りました。米国企業のシステムにも、理想は決して感じませんでした。そう考えるに至った理由を、私が体験した範囲で、お話します。

アメリカン・ドリーム

日本人独特の謙譲の美学もあるでしょうが、日本は結果均等、米国は機会均等などと、自らを卑下して米国を称える向きがあります。私は、逆とまではいいませんが、少なくとも米国は、むしろその人の運命、選択肢が、生まれながらに極めて限られている社会だと感じました。

そういうと、LAドジャースの投手ケヴィン・ブラウンが年俸15億円、ウォール・ストリートのトップ・アナリストのボーナスが18億円など、桁違いの大金を手にする人を引き合いに出す方もいらっしゃるでしょうが、現実には、大多数を占める普通(大体、大学を出た程度)の会社員の給料は、2〜3万ドルで、何年勤めてもほとんど上がりません。共働きでようやく生計が立つ、というのが普通の米国人家庭です。

私の隣のアパートに黒人家族が住んでいまして、やはり夫婦共働きですが、奥さんが2人目の子供を身ごもったのを契機に、だんなは朝晩かけもちで仕事をしましたが、それでなんとか暮らしていける程度です。だんなはきちんと大学を出ているにも関わらず、です。彼も言っていましたが、特殊な才能を持つ一部の人達を除くと、「株と宝くじ以外、大きな夢を見ることはかなわない」のです。

こうなってしまったのは、なによりも、年収一億ドルを超えるマイケル・ジョーダンの納税率が25%にも足らないような金持ち優遇政策のせいでしょう。つまり、「Winner gets all 」を推し進めてきた結果、上位5%の人が90%の財を独占する、まさに上か下かの社会になってしまったからです。

現在、重役と一般社員の賃金格差が 419:1にまで跳ね上がり、数字上は確かに未曾有の好景気かもしれませんが、庶民の不満はむしろ高まる一方で、これでウォール街がこけたらロス暴動どころではない、大変な社会不安の状態になることが予想されます。

そのうえ、これは日本もそうですが、米国も年金制度は完全に破綻していまして、先日も連邦政府から、納税者全員(つまり私のところにも来た)に、「社会保障年金では将来生活できませんので、自分でしっかりやってね」という旨の手紙が送りつけられました。セーフティ・ネットなどありません。しゃぶ中としゃぶの売人がはびこり、銃声が子守唄の都市部ダウンタウン・ハーレムに暮らすのが最低限の生活保障、というのであれば、それは確かにセーフティー・ネットですが。

現在、日本が制度疲労を起こしているのは事実だと思いますが、だからとっていってこのアメリカのシステムを取り入れる事が果たして日本人にとっていいのでしょうか?世界で最も賢い民族の一つである日本人の英知で、なにか生み出せないものなのでしょうか?

ストック・オプション

私の勤める会社はフロリダ州オーランドにあるケーブル・テレビ局でして、従業員230人ほどの米国の典型的中小企業です。役員以外はボーナスも無く、昇給は年に1度、パフォーマンスによって3〜5%と決まっています。家族持ちも沢山いますが、一般社員は例外無く共働きです。年収2〜3万ドルで将来の収入増も期待できない以上、共働き以外選択肢無しといったところでしょう。

ちなみに一般社員の70%以上は大卒です。「妻は専業主婦」というのは、役員クラスまでいかないと、いません。おばちゃん社員もかなりいるのですが、皆口を揃えて、「ああ、専業主婦やりたい」と言います。ストック・オプションなんてありません。私の隣人で近所のスーパーに勤めている隣人も、「そんなの幹部じゃあるまいし、あるわけ無いじゃん」と笑い飛ばしてました。

ストック・オプションを末端社員にまで出している会社は、立ち上げたばかりで資金繰りに苦しい会社(シリコン・バレーの各会社がこれに当たる)である場合が目立ちます。逆に、確実に利益を出せる、つまり株価上昇が期待できる大きな会社ですと、役職者以上にしか出していない場合も多々あるのです。

私が勤める会社の一般職員が役員になる可能性は、無いわけではないのでしょうが、現実には起こっていません。役員は他の会社から横滑りしてきた人ばかりです。

私が勤める会社の一般職員が給料を上げるには、もうひとつ格上の会社(もっと大きなテレビ局)に移るくらいしか方法は無いのですが、それでも大して上がるわけではありません。私が勤める会社社員に限らず、大卒一般職員はどこも似たようなもので、彼等にとってのアメリカン・ドリームとは、株と宝くじ、それと一念発起してプロフェッショナル・スクール(経営学、法律学、医学など)に行く事です。

教育

米国は日本以上の学歴偏重社会で、名門プロフェッショナル・スクールを出ると大金獲得のチャンスはかなりひろがりますが、問題は、その学歴を得るのは、相当裕福な人間でない限り難しいことなのです。何より学費がかさむのと、日本のように試験一発勝負でなく、出身高校、推薦状など主観に左右される選定基準がかなり重要な要素を占めるためです。

米国では、公立学校は完全に崩壊してまして、都市部の公立高校に行くと、登校時、金属探知機をくぐらされるところが沢山あるくらいですが、私立学校に行かせる金が無い家庭の子女は他に選択肢がないのです。そうした学校でまともな教育を受けるのは難しいし、仮に生き残って卒業まで漕ぎ着けて、やっとこさ州立大学までは学校からの借金で行けても、プロフェッショナル・スクールまでは届かない。

例えばビジネス・スクールですと、年間学費だけで450万円前後かかるのです。私がビジネス・スクールに入ってすぐ気付いたのは、中流家庭出身者は日本人だけといっても過言ではない点です。米国人学生は金持ちの坊ちゃん集団、他国からの留学生に至ってはもう特権階級出身者ばかり。このときほど、日本人に生まれてよかったと思ったことはありません。

というのも、日本で今、「子供を一人米国に留学させる金が無い」という親はそう多くないはず。また、社会人留学志望者でも、「留学費用を作れない」という人は、いないのではないでしょうか。

米国で高収入を得る道は、このように非常に限られているのです。その上に人種差別。特に非白人にとっては、誰にでもチャンスがある国とは、誰がどういう意味でいっていたんだろう、と思います。

明日は2000年元旦ですが、その日に生まれた子が十歳を超えて生きられる可能性は100分の1以下だと、MSNBCのニュース番組でやってました。日本、米国を含む先進国に生まれるということはそれほど幸運なことなのです。

教育に関して言えば、日本では勤勉に誠実に働いてきた先人達の努力の成果で、やる気さえあれば大学、さらにはその先まで、無料で又は廉価で教育を受けることができるという、欧米に比類するものが無い、世界に誇れる機会平等の社会インフラがあります。

日本にしろ米国にしろ、国という傘があるからこそ、わが身明日をも知れずということは無いのですが、私達は不幸にも、戦争の反動か米国の策略か、日教組のせいかどうかはわかりませんが、そうしたことを教わっていないはずです。

私は年に1〜2度、日本に帰りますが、その度に、「米国型」ですとか「欧米並に」などと、自分達を卑下して、西洋人に追従する声が強くなっていると感じます。これは、愛国心という言葉を使うと誤解を招くなら、ナショナル・アイデンティティーなり抵抗の無い言葉に言い換えますが、ともかく、自分の根っこがないための混乱だと感じます。

人種差別

なくそうとしている人は確かにいますし、その努力をしている会社も沢山あるのは事実です。ビジネス・スクールでも、必修のビジネス・エシックスのクラスだけでなく、人種差別をテーマにした科目が多々用意されています。それに加え、高等教育機関、企業などは、Affirmative Action という名の元において、一定の割合でマイノリティを入れなければいけないことが法制化されてもいます。

しかし私の見る限り、人種差別が縮小傾向にある、とは考えにくいのです。金持ちと貧乏人の居住区がはっきり分かれているのと同じように、ヒスパニック、黒人らの低所得者層と白人の居住区は、どの街に行ってもはっきり別れています。低所得者層の居住区は、住居が劣悪であるばかりか、道路、公共設備、学校など、公金で行われているため、少なくとも同じ市内ならば平等であるはずの社会インフラもひどいものです。警察に職務質問を受けるのは、いつもマイノリティ、特に黒人です。米国の人口構成は、白人80%、黒人13%なのにも関わらず、職務質問を受けた黒人の数は、白人の倍以上との統計が出ています。

先日、テレビの4大ネットワークの一つCBSで放映されたドラマが話題になりました。内容は、民主党でリベラル派の、つまり人種差別はあってはならないという言いきる一家の娘が、黒人と結婚する、と切り出した時の、両親の心の葛藤を描いた社会派ドラマです。

ネオナチ、KKKの人数もここ1年で40%以上増えています。これは人種差別もそうですが、役員と平社員の所得格差が十年前の10倍、419:1にまでなった、成功者、非成功者の格差とも大いに関連していると思います。年収100万ドル以上稼ぐ人間が、1990年の150万人から今年は350万人になりましたが、その分しわ寄せは当然下に行くわけでして、上が稼ぐ分だけ下の絶望感は強くなっているのでしょう。

私の会社にも人種差別は歴然と残っています。経営陣は白人のみです。私の部署も、この人種差別の被害を大いに被っています。私の部署は、主として英語を日本語に変える作業なのですが、ボス(仮にAとします)は、日本語どころか国際経験も皆無、マネージメントすらしたことの無い、元サックス吹きの白人です。

頭も性格も悪いどうしようもない人間ですが、上司へのごますりが抜群に上手で、いまだに我々の上司です。彼は毎日なにをするでもなく、電話で雑談に興じるか役員室にゴマすりにいくなどをして時間を潰し、計ったように定時の5分前、4時55分になると帰ります。それでも私達に迷惑をかけなければ許してもいいのですが、時々とんでもない悪行をします。

1年半前の夏でした。社員割引があるゴルフ場Mから、「社員一人を含むアジア人4人組がやってきて、他の3人も社員だと言って割引させようとした」と会社に報告があったとき、調べもせず、「誰とはここでは明記しないが、君達のうちのひとりがやったのは分かっている。反省せよ」と、日本人社員全員を糾弾する手紙を、あろうことか社内メールで社員全員に送りつけたのです。その当時、社員が非社員を連れていって割引してもらうのは決して褒められたことではないが、ゴルフ場Mも暗黙の了解でして、車の少ない田舎道の横断歩道を赤信号でも渡るくらい、Aも含め、Mでプレーしたことのある社員の間では身に覚えのあることでした。

特にその時期は夏場の超閑散期です。犯人は、結局元社員で、しかも日本人ではありませんでした。Mは、どういうわけかアジア人が好きではなく、それまでも応対が悪い、空いているのに待たされる、など色々嫌な思いをしてきたので、ゴルフ場Mに関しては、私達は「ついにやりやがったな」という思いでしたが、Aに関しては怒りを通り越して悲しくなりました。

余談ですが、ゴルフというのは、人種差別を公言しているオーガスタ・ナショナルで行われる大会が、いまだにメジャーの一つとして公式競技に数えられている事からも分かる通り、人種差別の象徴のようなスポーツで、米国ツアーには、米国籍マイノリティのシード選手は僅か2人です。日本人が勝てないと良く言われますが、それは実力不足もさることながら、「他選手からの疑いの声がある」と、主催者から、ボールに細工していないかどうか調べられるような、ゴルファーとして最も屈辱的な仕打ちをされていることにも原因があるのです。

閑話休題。元々、その無能さにあきれていた上に、こうした迷惑もいくつかあったので、私は何度か、Aの上司B(役員)には直談判、さらには社長、他役員にe-mail などで訴えましたが、「むにゃむにゃ」と逃げの一手でした。むしろ、社長にe-mail を送ったことで、Bから厳しく叱責されました。Protocol だ、と。

このProtocol というのは、階級、ランクを柔らかく言い換えた言葉で、米国の会社では重視されているケースが多々見られます。米国の組織は、表向きのフレンドリーな笑顔とは対照的に、階級がはっきり分かれております。

たとえ一般従業員が直属の上司に不満を持っていたとしても、その上司を飛び越えることは許されておりません。給料査定などの評価も完全なトップ・ダウンで、部下が上司を評価するようなことは決して無い。私の勤務する会社は勿論、私の知っている会社、例えばコルゲート、ナビスコ、エトナなどの大会社でも、上司が部下を評価する以上のシステムはありません。これは、「下々に意見される覚えはない」という階級意識、差別意識がはっきり残っているからと思われます。

エグゼクティブはエグゼクティブ、ヒラはヒラ、ものを言わせない、ということです。連中は、元を正せば階級が厳然としている欧州の出身、階級、人種を通した差別は骨の髄まで染みついているのでしょう。

人事部が無い、すくなくとも、採用の権限は握っていない(採用はその部署のヘッド)のが米国企業の大きな特徴で、それはそれで風習だから結構なのですが、私の会社では、これが大いにネックになっています。私のボスAは、そのまた上のボスBが連れて来た人間。Aをクビにすることは、彼にとっては自分の評価にもつながるわけですので、出来ない相談なのです。

それに加え、彼等のアジア人に対する人種差別があります。割と中立(完全に白人社会の一員というわけではないから)で仲の良いユダヤ人役員に探ってもらったところ、「日本人に管理をさせるのは、ちょっと」というわけです。彼らの考えの根本には深い人種差別の考えがあると、このとき改めて実感させられました。

実際、これこそが普通の米国の会社の姿で、(究極の功利主義者であると同時に、むしろその優秀さゆえに差別の対象となっている)ユダヤ人が権利をがっちり握っているところ、例えば金融業界以外で、差別が無いところはないといっていいでしょう。これは当の白人も、打ち解けてプライヴェートで話をするとみな認めるところですし、逆に、「差別を受けたことの無い」と言うマイノリティがいたら会ってみたいものです。

ただ、恥ずべきことだから変えたいと思っている白人も沢山いるのも事実です。結果わが部署では、日本語がわからない人間が、日本語に変える作業をしている私達を管理、評価するという信じられないシステムが、日本部発足3年半を経た今でも続いているのです。しかも私の部署には、適任者が数人(ボスに比べれば10人全員ですが)、います。例えば、トーナメント中継の実況担当者は、在日本時、アナウンサー業の傍ら他のアナウンサー、タレントを抱え、事務所をかまえていた方で、放送業界経験も20年以上です。他にも、日英両語堪能で、しかもよく働くユダヤ人の女の子もいました。

白人の他民族に対する差別意識は、実際、ひどいものなのですが、これは、人のふり見てわがふりなおせ、でして、日本人でも、朝鮮人を含めた他のアジア人に対して差別意識を持つ人間が沢山います。今後、日本も移民を多数受け入れることになるでしょうから、日本人管理者が他民族に対してこのような蛮行を行わないよう願っています。

念の為に申し上げておくと、当社は、決して特殊な、例えばKKK(クー・クラックス・クラン)のようなところではなく、開局5年の、ごく普通の中小企業です。今年ついに黒字経営に転じた、むしろ優良会社です。

カジノ経済

ノーチャンスの米国一般市民に夢を与えているのはなんであろうか?株です。現在、米国人の家計貯蓄率はマイナスですが、その一方で、国民の約半数が株式相場に参加している。つまり、借金して株を買っているのです。

テレビをつければ毎日のように株で億万長者になった人のニュースが流れる。シスコ・システムズの株を、1991年に1,000ドル購入していれば、現在3億円余りになったなどと、射幸心をこれでもか、と煽る。

私が勤める会社でも、401kがあることもあって、ほぼ全員、株式市場に身を投じています。同僚と飲みに行くと、株談義になることもしばしばです。しかし、これがまた新たな焦りを生んでいるのです。

今、全米で最も人気のある番組は、二つのクイズ番組「Who Wants to Be a Millionaire? 」と「The Greed 」です。二つとも基本的には優勝賞金100万〜200万ドルを賭けて、抽選と予選を突破した視聴者が挑む、まさにアメリカン・ドリームのクイズ番組ですが、一問ごとに賞金額が倍に増え、「どう?この辺で止めておけば、これだけのお金が手に入りますよ」と、札束を取り出して出場者に握らせたり、頬をなでたりする悪趣味番組でもあります。

ところがこれが、子供から老人まで幅広い年齢層に受け入れられているのです。ケーブル・テレビの普及で、視聴者の番組選択肢が多岐にわたり、視聴者層も限定され、ばらばらになりがちな今日、国民がある特定の番組を一斉に見るこの現象は稀で、「I Love Lucy 」以来であるとまで言われています。

なぜ未曾有の繁栄を謳歌しているはずの米国民が、金銭欲丸出しのこんな番組に夢とロマンを感じているかと言うと、それは、未曾有の経済成長によって確かに億万長者が多数生まれたが、それは国民のほんの一部にすぎず、依然大多数はその恩恵を受けていないという現実があるからなのです。持つ者と持たざる者の格差はますます広がり、国民の半数が何らかの株式投資をしているなか、全体の90%は最も裕福な人々によって握られ、一般家庭で保有する株の割合は10%に過ぎないのです。

さらに賃金格差も拡大し、企業の重役と工場労働者を比べた場合、80年にはその比率が、労働者1に対し重役41であったのが、98年には重役の比率が 419にまで跳ね上がっているのです。それでも労働条件が良化していればまだいいのですが、2年ほど前から話題になっている日米失業率逆転も、実はその米国労働人口の半分はパートで、しかもそのパート賃金は1973年から1997年まで25年間下がり続けていたという事実もあります。

そのような背景のなか、焦燥感の募る一般の米国人たちは、自分達も富を実感したくて一攫千金を夢見るようになる。その結果、「Who Wants to Be aMillionaire? 」のような番組がはやり、オンラインの株式売買、そしてカジノそのものが盛況になり、ラスベガスがますます発展するような現象が起こっているわけです。

雇用

ビジネス・スクール時代、そして現在を通して、米国企業は良しにつけ悪しきにつけ、厳格なトップ・ダウンだと感じてきました。一般従業員は人手不足の時に雇い、そうでないときは解雇すればよい、つまり交換可能な部品と同じ扱い、という考え方です。ビジネス・スクールでも生徒にそのように教えていますし、生徒もそれに疑問を挟むこともありません。

人切りはコスト削減には最高の方法ですし、ウォール街でも、この首切を行った会社に対しては評価が一気に上がります(つまり株価が上がる)。人員削減が必要なこともあるでしょうし、それ自体を非難する気は毛頭ありませんが、ただこういう環境からでは、一般従業員からたまごっちのアイディアが浮かぶことは決してない、とは思います。自分の場所をわきまえている、又は、わきまえさせられているからです。

私が勤める会社では、1997年初春、台湾でも放送を始めようと、中国語の翻訳ティームを組織したのですが、その際、台湾から6人ほど人を雇いました。半年後、契約問題でこじれて台湾での放送が出来ないことが確定すると、即座に解雇しました。(労働ビザに規定されている)帰国のための片道切符分だけの金を渡して。

私からすれば、一緒に働いていた同僚が翌日一斉に消えたわけです。無論台湾人だけでなく、台湾語放送のために雇った人は全て解雇されました。こうしたことは米国企業では決して珍しい例ではありません。もちろん、クビになった側も黙っていなくて、何か材料を探して訴えるのは、米国では日常茶飯事です。

ただフロリダ州は、企業誘致のために企業側に甘く、他州では不当解雇に当たるケースでも許すものですから、私が勤める会社を首になった人の裁判は、過去、苦戦してきましたが。ともかく、日本の70倍もの数の弁護士がいるのにはわけがあるのです。現在私の勤める会社が不当解雇で抱える裁判は3件です。

最後に

1999年大晦日、私は自宅でニュース専門局(CNNかFOX News Net のどちらかでした)の報道特別番組を見ていたのですが、その中で、丁度 10年前の1990年、クライスラーのCMに使われた当時の同社会長、アイアコッカの演説の映像が出てきました。

「アメリカは、今、日本に対する劣等感に陥っているだけなのです。日本が完全で、アメリカは駄目だという先入観にとらわれるのはやめようではないか」

この科白の‘アメリカ’と‘日本’を入れ替えれば、そのまま、現在の日本人が持つべき気概ではないか、と思いました。特に日本には、コンプレックスが原因かどうかはともかく、米国を根拠無く偶像化する傾向がありますので、自分自身の根っこをしっかり持って、戦略的な思考をすべきではないでしょうか。いたずらな偶像化は畏怖につながったり、それが過ぎて感情的に排斥に向かったり、とろくなことがありませんから。

例えば現在、米国がインフレなき好調を維持できているのは、世界中から大量の資金を借金し続け、しかもその額が天文学的に増えているにも関わらずドル紙幣を印刷して、世界中にばら撒き続けることが出来るからなのですから、日本がそれと同じことをできない、又はしないのであれば、例えば、「法人税を米国並に下げろ」という議論は、全く根拠すらないものになると考えます。(米国の法人税が安いのは、外国からの借金を無視し続けられるという前提に立っているから)改革が必要なのであれば、独自の、つまり欧米という呪縛から解き放たれた上で議論すべきだと思うのです。

それは攘夷ですとか、欧米とは決別だ、などと居直る態度では有りません。上手に戦略的に対峙するという意味です。野球でもそうですが、向上するには、上手に真似ることは肝要です。しかし、それが行き過ぎて猿真似になると、不思議と成功しません。アイアコッカ率いるクライスラーは、さきの立派な演説とは裏腹に、90年代も、日本車の外見だけいじってクライスラーの名前で売る作業を続けた結果、オリジナリティを失くしたばかりか、かといって日本車神話を作り上げた超低故障率を達成することはできず、劣悪車の代名詞的存在に成り果て、結局、ダイムラーに吸収合併されました。

感情論を排して戦略的に、学ぶ、又は真似ぶ際に一つ気になるのは、世論に多大な影響を与えるマスコミです。これも渡米後気付いたことですが、こういったことに大いに責任あるべき大マスコミの特派員の殆どが、実は満足に英語を喋れないため、相手の言質を取れず、結果、プレスリリースを見て米国賛美の記事を垂れ流している状態なのは、客観的に米国と向き合う上で大いなる障害になると思われます。

日本語が世界の公用語でないのは大変残念なことですが、現実問題として英語が世界の公用語なのは、少なくとも後100年くらいは変らんでしょう。であるならば、特派員には、アメリカの現実を正確に伝えることができる人間を送るべきです。確かに米国を偶像化したままでも、今までそれで立派な国を作ってこれたから一向に構わない、とおっしゃる向きもあるでしょうが、やはり事実は一つの判断材料として伝えるべきだ、と考える次第です。